2012年4月28日土曜日

小学校から英語が始まるのはなぜ。 国際化なら好きな国の語学を勉強すべきです。 ...

小学校から英語が始まるのはなぜ。

国際化なら好きな国の語学を勉強すべきです。

もう、イギリスやアメリカの時代は終わった。







わたしは個人的には小学校での外国語の履修には反対です。毎週1時間、歌やゲームを楽しむ機会を小学校5,6年生でローマ字を習う頃に取り入れる程度なら、外国文化に触れるという意味でいいと思いますが。



11歳ごろ~15歳までは、自分の国の言葉でしっかりとものを考えて、判断し、気分の言いたいことを表現できるように教えることが大切だと思います。わたしは7年前まで、日本の公立高校で国語を10年間教え、最後の5,6年は中学生の受験生の作文の採点を担当しましたが、年々生徒たちの母国語の力(語彙、小説・随想や新聞を読んで理解する力、漢字、句読点やかぎかっこ・敬語の使い方、筋の通った文章を書く力など)が低下していくのを実感しました。英語であれ、中国語であれ、外国語をしっかり身につけるのには、母国語の力と、母国語を使って考え表現する力が不可欠です。読書離れや大人との対話の機会、テレビや漫画・コンピュータへの没頭によって、子供たちの母国語の力が低下していく中、まずは日本語をしっかり理解し、使えるようにすることが最優先だと思います。



外国語を勉強する際に、小学校・中学校・高等学校であれ、好きな国の言葉を学べたらいいのは、言うまでもありません。でも、小学生にはまだはっきりとした世界の国に対するイメージさえなく、たとえあっても、家族や身近な大人の言うことに影響されています。(早稲田大学のマス・メディア研究に、小学校の外国に対する意識を扱った研究もあります。)万一、好きな外国語の選択範囲が3つ、あるいは4つあったとして、その言語それぞれの教員を採用するとなると、経費がとんでもなく高くなります。また、英語以外では、まだ外国語教育法に関しては、日本ではあまり議論がつくされ、研究が深まっていないという経緯もあり、どの小学校にも差別なく、同じ数の外国語を教えられる人材を派遣するのは、経費の点でも、選抜の点でも難しいと思います。ある外国語がよくできる人が仮に見つかっても、その人がいい教員となれるとは限りません。英語のように現在、実際に中学・高校での教科として定着している言語でないと、「教授法」も確立していないし、大学で教育方法を学ぶことも難しいと思います。



小学校だけの英語学習にご反対なのでしょうか。それとも、中学校や高校でも、履修される外国語がほとんどの場合英語であることにもご反対なのでしょうか。「もう、イギリスやアメリカの時代は終わった」という点には賛成です。ただ、今英語を勉強しなければならないのは、英語が世界共通語、国際語になっているからです。主に英語を話すのは英米だけでなく、インドやフィリピン、南アフリカなど(オーストラリアやアイルランドはいうまでもなく)さまざまな国があります。何より、世界のさまざまな人がともに旅行や仕事で顔をあわせることが多い現在、たとえば同じ場所にベトナム・イタリア・日本・リビアのビジネスマンや政府関係者が集まって話をする場合、媒介とする共通語は英語になります。イタリアで主催される、イタリア語教育に関する研究会やセミナーでよく言われるのは、「英語は国際コミュニケーションに必要な言語として揺るぎのない地位を築いてきたけれども、反面アメリカやイギリスだけのものではなく、世界の人みなのものになってしまったために、個性的な文化的色彩や深み、独自性を失っている。逆にイタリア語は、豊かなイタリアの文化と密接に関わった、英語とは違う個性を求める学習者に提供している言語である」ということです。

貿易や旅行を考えても欧米の言語が大事になってくると思いますが(ラテン・アメリカの言語にしてもスペイン語・ポルトガル語です)、その際に、国際語である英語をまずしっかり学んでおくことが、のちのちこういう言語を勉強していくときのよい足がかりになります。



英語を学習するのは、「イギリスやアメリカ」の後追いをするためではなく、もはや「国際語として、コミュニケーションに不可欠な言葉だから」であり、たとえば世界のいろいろな国を訪れても、その国の言葉以外にも、英語での説明や訳はあちこちに見つかることも多いのです。また、ある程度の年齢になってから、母国語の基盤がしっかりできあがってきた14歳ころからは、逆に自分の国の言葉とは違う言葉を学ぶことが、母国語やその文化を見直すためにも大切だと思います。








一意見としてはありですね。



ただ、このような問題定義は現状をあまりに理解していない幼稚な意見ではないかと思いますよ。そもそも、あなたが英語を相当意識していることは、既にこの質問(意見)を書いた時点で明らかです。まあ、英語が苦手だったのでしょうが、その挑戦的な発言はたんなる愚痴にしか聞こえないのです。



一方、vavaaiueさんの意見も一理ありますが、あくまで移住を前提とした場合に限りかなりレアなケースです。残念ながら多くの外国語の習得目的は移住が目的ではありません。現在の小学生が、今後成長していくにあたって、英語がどの程度重要かは以下の点で明らかです。



まず、学問の世界で、参考にすべき書籍は日本語でないもののは、そのほとんどが英語で書かれています。

たとえば、コンピュータなどは英語を習得しなければ操作すらおぼつかなくなります。日本語でできる範囲は限られているのです。

また、科学分野だけでなく、経済学や経営学の多くの書籍も英語です。フィンランド語が堪能であっても残念ながら習得はできません。また、将来海外とビジネスをする場合、貿易慣行や契約書のほとんどは英語が使用されます。



確かに、現地に移住するのであれば、現地語が大事ですが、生きていくためには英語なんですよ。アメリカやイギリス崇拝の問題ではありませせんね。



【補足】について

では何語を使うのでしょうか?エスペラント語?なぜ普及しないのでしょう?



あなたの理論でいくと、10カ国の人と付き合うためには10の言語が必要ということですね。

教科書も全てそろえるのでしょうか?ちょっと現実離れしていませんか?

幼稚な理想論では賛同をえることはできないと思いますよ。

極論を言えば方言も覚えなくてはいけません。なぜ公用語があるのか、なぜ共通語があるのか、良く考えましょう。







私は、先日、英語教育に関して質問した方に対する回答として、次のようなものを投稿いたしました。しかし、投票受付になり、その後、7日、経ったら、取り消されてしまいました。でも、少しでも多くの日本人に読んでもらいたいと思って書いたものです。読んでみて下さい。09/6/14の回答(これも、投票にまわされれば、取り消されてしまうと思います)も読んでみて下さい。

回答の中でフィンランド人云々としているのは、前の質問者の方が、例として、「日本人とフィンランド人が出会ったら、英語で話すと思う」と書いたのを受けて書いたためです。



外国の言語や文化を学ぶことは非常に大切なことです。しかし、日本人の英語学習は、どこかが狂っていると思っている人は多いでしょう。

まず、英語が「国際語」だという意見を振り返ってみましょう。日本人とフィンランド人が会ったら、英語で話すと言いますが、それはどんな場合でしょうか?日本人がフィンランドに観光旅行に行ったら、街の土産物品店や空港の売店の人と英語で話すかもしれません。しかし、フィンランドで本格的な活躍をしたいと思ったら、フィンランド語が出来なければ話にならないでしょう。フィンランド人が日本に来ても同じことです。

実は、英語というものはそんなものなのです。英語を日常語にしていない国に行ったら、非常に限られた範囲でしか使えないのです。世界に60億人の人がいても、英語を日常語とする人は2割程度しかいません。

英語を使って国際的な活躍をしている人というのは、実は、英語を日常語としている国で活躍しているか、程度の差こそあれ、限られた範囲で活躍しているだけでしょう。たとえば、国際空港の管制塔の人も一応は国際的な活躍をしていると言えるはずです。また、別の観点から言うと、英語しか知らなければ、英語を日常語としている国でしか活躍できないわけです。日本人の多くは英語しか習わないから、その必然的な結果として、英語を日常語としている国で活躍する日本人についての話を聞くことが多くなるため、英語=国際性という錯覚が助長されるのではないでしょうか?

次に、日本人とフィンランド人が会議を開いたとします。会議では、日本語とフィンランド語が対等に扱われなければなりません。会議に参加する国の数が増えてくると、だんだんやっかいになります。それで、よく特定の言語を「公用語」として、他の言語の使用を認めないということが起こります。しかし、ある言語を日常語としている人とそうでない人とでは、表現能力に差が出てきます。この差は学校での授業を少し増やしたりする程度の努力で克服できるようなものではありません。これは不公平なことです。実践的な面で不公平だというだけではなく、それぞれの伝統的な背景の取り扱いに差をつけるという意味でも不公平です。しかも、こういう情況を、長年、放っておくと、自他ともに上下関係のあるアイデンティティーまで持つようになってしまいます。ある特定の集団の言語を「国際語」と認めることは、非常に危険です。「便利だから・・・」では済まされない問題が起きてしまいます。

日本人が英語が下手なのは、英語を話す機会が少ないからです。このことが、さらに、日本人は国際的な人間関係とそのような関係の中で果たす言語の役割についても疎いという結果を生んだのだろうと思います。そのために、日本では英語に現実ばなれしたイメージが付加されたのではないでしょうか?その上、日本人は与えられた一定の枠の中で頭角を表そうとし、その枠の外は見ないという傾向があるために、今のような英語学習の情況が生まれたのではないでしょうか?このような事情を知らない外国人には、日本人の英語学習が不可思議なものに見えるのは当然なことです。

興味・必要性は人によって違うのですから、日本の学校ではもっとヴァラエティーのある外国語が学べるようにすべきです。お仕着せの英語の幼児教育や義務教育における必須科目としての英語教育は、男子には柔道、女子には料理・裁縫を教えるという教育と同じ方針に基づいていると言えるでしょう。個性を無視しているばかりでなく、ある言語集団を男性、他の言語集団を女性と決めつけるという考え方が潜んでいることからしても理不尽です。それを、まだ思考力の充分に発達していない子供たちに対して行うのですから、恐ろしいものです。外国語学習を正常なものにするためには、外国語はむしろ義務教育の必須科目からは外してしまい、大学の外国語学部や外国語専門学校での教育を充実させたり、外国との交流を促すプログラム等を拡大したりする方が良いと思います。

とにかく、興味のある外国語を習うべきです。また、異なる伝統的な背景を持った人々の存在を認め、平等な社会を築く努力をしなければなりません。



長文、しかも、二番煎じですみません。







小学生や中学生が、「好きな国」を選びようがないでしょう。3ヶ月たてば興味が変わるかもしれないし。それで、一番沢山の人が勉強している英語を学ぶのです。イギリス人やアメリカ人と話すためではなく、ドイツ人やフランス人、中国人や韓国人やベトナム人と話すにも英語が一番使い勝手があるから、イギリス、アメリカの言語としてではなく、国際語として学んでいるのです。



とりあえず、一番使う可能性が高いであろう英語を勉強し、その後大学で興味がわいたら別の言語を勉強する、という形に、私は問題はないと思います。私は、大学でフランス語、イタリア語、ドイツ語、韓国語、中国語、アイヌ語、タイ語を勉強しましたが、英語を勉強していたときの勉強法がずいぶん役に立ちましたよ。



英語は、それがいいかどうかは別として、今後どんどん重要性が高まっても、重要性が低くなることはないでしょう。小学校で仮にタイに興味を持って、英語ではなくタイ語を選択したとしても、将来「英語やっときゃよかった~!!」って思う可能性が非常に高いと思われます。タイに住みでもしない限り、旅行程度でしたらタイにいっても英語で通じますもん。



==補足==

>>歴史が英語の優位性を作ったのなら今後は変えていくべきです。

>>日本はどこの国とも平等にお付き合いするために。



例えば、外交において、経済的にも政治的にも重要なアメリカ合衆国と、悪いですがほとんど話しにならない程度の経済力のスーダンを、同列に扱うことが、いかに非現実的であるかは、想像に難くないと思います。「平等にお付き合い」なんてことはありえません。貴方だって、同じクラスの仲が良い友達と、全然知らない別のクラスの子と、「平等にお付き合いしろ」って言われても、困るでしょう?我々が、全ての人と平等に付き合うことが非現実的であるのと同じように、日本がどこの国とも平等に付き合うなんて、あまりに非現実的です。



また、「どこの国とも平等に付き合う」ことを理想とした場合にも、英語を学ぶことが最も効率がよいと言えるでしょう。世界の国々と、平等に付き合うといっても、全ての言語を一々マスターするのは、現実的には不可能です。相手が日本語を覚えてくれる可能性もほとんどありません。両方の国が、英語を学んで英語で話すことができれば、覚える言語が少なくて非常に能率的です。



質問者さんは、英語の勉強はイギリスやアメリカと付き合うためだと思っているようですが、そうじゃありません。英語は、もはやイギリスやアメリカの言語として学んでいるのではなく、出身国関係無しに平等に喋るための、国際共通語として学んでいるのです。世界と平等に付き合うためにも、他のチョイスがない以上(エスペラントは全然流行ってないから)、英語を学ぶのが、一番平等的で、一番能率的でしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿